ノー・ディレクション・ホーム/マーティン・スコセッシ


語り尽くせないが、重要な事。
65年頃の記者会見の映像が後半に頻出する。
これが面白く、記者や若者が「ハイウェイ61のジャケ写の意味は?」「歌のメッセージは?」「どうカテゴライズされたい?」とか聞いてきて、ディランは苦笑する。
ジョーン・バエズが証言してるが、「ディランの歌の意味するところは本人にもよく判らない」で、それが創作という作業なんじゃないかと思う。
私は、メッセージや意味を伝えたい人は音楽なんてやらなくていいでしょう、音楽に失礼だよ、本でも書いてなよ、って考え方なんで、すごく得るものが多い映画なのである。
ディランもそう遠くない考え方ではないか?
ボブ・ニューワースが言う「オーネット・コールマンの音楽に意味なんてあるか?」。
何で意味とかメッセージとか無いと不安なんでしょうね、みんな。
ただ、ひたすら素晴らしいもの、美しいものにうたれたらもう十分じゃないんですか?
と、私は問いたい。
表現者が作品に意味をつけるのも、何か心細いからだと思わないでもない。
意味やメッセージがあるものの中にもそりゃ魅力的なのもあるけどね。
でもそれが音楽を越えたら、音楽やってんじゃねーよ、って思う。


メモを持って再見したが、面白くて10分ぐらいでメモとるの辞めた。
デイヴ・ヴァン・ロンクの豪快さ、ジーン・ヴィンセントの興奮、オデッタの暑苦しさ、ジョニー・キャッシュの二枚目さ、ジョン・ジェイコブ・ナイルズの恐ろしさ、かつての恋人達の美しさ。
そして何より、ディラン自身の被写体としての魅力に、私は本作を昨年の外国映画一位としたのだ。
チャップリンそのままの愛嬌ある仕草、神経症的な動き、明らかに何か摂取した恍惚とした表情でマイクに向かう1966年ツアーの映像に思わず、こんな魅力的な音楽家の男性を見たことが無い、という言葉が浮かんでしまう。
そして今現在の彼も、今日の日記のタイトルのようなキザな言葉をさらっと吐くような、芝居がかった感じが、YO-KINGの言葉を借りれば「最高のかっこつけ屋さん」であって、それがまた魅力なのだ。